無意識のブレーキと意識のアクセル②~チームプレーができる条件_前編
6月になりました!
梅雨の季節ですが、
雨よりも先に夏が来そうなくらいのお天気ですね。
さて、
4月の末に書いた
「無意識のブレーキと意識のアクセル①~私の映画タイトル」
の続編を今日は書いていこうと思います。
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前回は、
私が何度も反復しながら人との関係性をどのように構築してきたのか、
そのエンジン(アクセルとブレーキ)
そこからくる私の人生の映画タイトル
について書いてみました。
今日は、
そのエンジンを外して、
なぜ、チームプレーを楽しめる自分になったのか、
ということを整理していきたいと思いますので、
どうぞお付き合いください。
誰も私のことをわかってくれない
と思いながら、
見事にわかってくれない人たちを存在させていた私ですが、
そんな状況の中、
条件によって変わらない繋がりがほしい
本当に心から楽しめるチームプレーがしたい
とも思っていました。
(どうせ私のことわかってくれる人はいないよね、から出発するので、絶対にチームプレーを楽しめる状況にはならないのですが…)
その頃の私は仲間を創る今年よりも
一人でいて平気な状況を創ることに
集中していたかもしれないですね。
誰も助けてくれないのが当たり前
↓
だから、
全部自分でやらなければいけない
↓
手伝ってもらっても
(自分でやらなきゃいけないのに、手伝わせて)
「ごめんなさいね」
という論理展開でした。
それではチームプレーはできるはずがありません。
そこに、
私の固定概念を壊してくれるきっかけとなった言葉があります。
「手伝ってる側からしたら、
“ごめんなさい”よりも“ありがとう”の方がうれしいと思うよ」
当たり前の話だと思われるかとおもいますが、
私にとっては衝撃的な一言でした。
その頃の私の中にはない概念。
手伝わせてるのに
“ありがとう”...
(そもそも「手伝わせてる」から違いますが...笑)
そこから少しずつ私の中の“私という範囲”が変わってきます。
私、と言えば
この身体の範囲を「私(自分)」だと思うのが普通だと思います。
だけど、この身体の範囲が「私」ではないのです。
チームプレーをするためには、
そのことに気づき、
本当の「自分」を知ることが第1条件なのです。
なぜ、チームプレーができないのか。
条件によって変化しない仲間を持つことができないのか。
それは、端的に言えば
1人ひとりが「知っている世界から自由」になれないからです。
みんなそれぞれに持っている「こうあるべき“ねば、べき”」があるのです。
そのことを探っていけば、
相手に対する“期待”があるのです。
更に、その“期待”の背景にあるものは、
“本能、欲求”なのです。
そこから、
人間はあらゆることにおいて、
「こうあるべき、こうするべき、こうやらねば、こうあらねば」
という絶対そうだろう、というものを蓄積していきます。
その1人ひとりがもっているあらゆる情報知識から創られた
「ねば、べき」から自由になれないので、
自分自身も苦しいし、
相手も苦しめる。
関係性も築けないし、
チームプレーができないのです。
チームプレーをするための第1の条件としては、
一人ひとりが持つ
「知っている世界から自由」になることが必須項目に挙げられるのです。
そのことを私は、
nTechと出会って明確に突破することができました。
チームプレーをするためには、
それだけでは不十分になります。
1人ひとりが知っている世界から自由になった上で、
次に必要なことがあるのです。
その第2の条件については、
次回に書いていきます。
今日も最後までお読みいただき、
ありがとうございました!